平成25年5月31日、最愛の夫を私の不注意から、MRSA(多剤耐性黄色ブドウ球菌)肺炎で亡くしました。
脳梗塞で倒れ右半身麻痺と重度の嚥下障害の状態になり、三年間、付きっきりの介護をしてきました。
脳梗塞の再度の発作に見舞われ、急性心筋梗塞で救急搬送すること二回、亡くなる二ヵ月前に、
心臓カテーテル手術の名医に、手術をしていただき、幾度もの山を越え、これからのんびりと療養生活が過ごせると思った矢先、病魔は既に主人を手遅れの状態にまで冒しておりました。
私が、すぐ傍にいて、異変に気が付かなかったのです。
熱もない。咳もない。食事も普通に食べ食欲もある。
毎月の定期検診で、CRP数値が6になっていて、循環器科の医師から、風邪薬を処方してもらい帰宅しました。私は、主人が風邪をひいていることすらわかりませんでした。
4日間分の薬がなくなり、週一のリハビリの日まで3日間元気にしていました。
病院へ行く車の中で、お昼に何を食べようかといつもの会話、窓の向こうを鼻歌を歌いながら眺める主人の横顔、本当にいつもの通院する状況でした。
まさか、二度と主人が助手席に乗る事がないなんて、思いもしませんでした。
5月14日、リハビリ前の診察で、サチュレーションが危険数値にまで低下、血液検査でCRP数値が35にまで上昇、即入院治療開始になりました。
しかし、時既に遅し、手遅れの状態でした。
何が何だかわからないうちに、ICUへ入室、意識がまだしっかりしていた主人は、抵抗し、帰りたいと点滴の針を抜いたり、酸素マスクを取ったりと暴れるだけ暴れ、私に、「家に連れて帰ってくれ」「帰りたい」と懇願しました。
この時の言葉が、主人の肉声の最期の言葉になりました。
涙を目にいっぱいためて、「帰りたい」と言った主人の顔が私の脳裏にやきついて、耳に、こだまして離れません。
そして、深夜、容態が急変、病魔は、主人の体を飲みこみました。
挿管し、人工呼吸器を付けられ、壮絶な闘病が始まりました。
私は、何としても主人の病気を治して、家に連れて帰るんだと心に決め、必死で看病しました。
日に日に状況は悪化の一途を辿り、終焉の近さを肌に感じていました。
しかし、ゼロではない、そんなに簡単に主人を取られてたまるかと毎日、いつも通りに主人に話しかけながら、お世話をしました。
薬で眠らされていても、薄目を開けて、私を探します。
溢れ出る涙を拭いてあげて、「早く良くなっておうちへ帰ろうね」と言うと、主人は、更に涙をこぼして意志を伝えました。
しかし、とうとう、最期の日が来ました。
30日未明から、更に容態が悪化、主治医の延命処置の問いに、私が主人の人生のピリオドを打ったのです。
「主人を逝かせてやってください。」と5月31日、午後0時2分、最期の最期、薄目を開け、私を見たまま静かに旅立ちました。
私は、絶叫し、それからの記憶が所々飛んでいます。
ブラインドを下ろしたまま、主人の遺骨の前に座ったまま、真夏だというのに、窓も開けず、蒸し風呂のような部屋に、延々と泣き明かす毎日でした。
通常の私の生活スタイルからは、考えられない不衛生な状態です。
両親が亡くなった時でも、こんな状態にはなりませんでした。
34年、苦楽を共にした最愛の主人を自分の不注意で失い、最期の決断は、本当に正しかったのかと自虐の念で、身が引き千切られる思いでした。
主人が、脳梗塞で車椅子生活になった始めの頃、移動は、大変な重労働でした。
介護の経験のない私にとって、至らない事ばかり、ある日、主人を抱いたまま椅子に乗せられず床に転げた事があります。
その時に、上の前歯を強打し、グラグラになってしまいました。
が、歯医者さんへ行く事もままならず、そのままずっと放置し、それから三年が経ってしまい去年の9月になろうかという頃、強烈な痛みが襲い始めました。
体がだるくて、歯医者さんへ行く気力が湧かないのです。
痛みで気絶しそうなくらいなのに、食事をしていないせいもあって、しんどくて、ついつい、日延べを繰り返していました。
いよいよ、我慢できないぐらいの激痛が続くようになり、這うようにして歯医者さんへ行きました。
その歯医者さんは、主人が春まで虫歯でお世話になっていたところです。
待合室で、突然、号泣する私、わけがわからないほど悲しくなって、周囲の患者さんたちに、ご迷惑な状況になってしまいました。
私の順番になって、診察室へ入り、淡々と治療が進みました。
限界をとうに越えた化膿で、歯髄までいっていました。
口をゆすいでくださいと言われ、カップの水をふくんだ時、水の味が、鉄サビのような感じがしました。
夏頃から、飲み水やお茶、食べ物の味や食感がおかしいと感じるようになっていました。
歯が化膿しているせいだと思って、気にしないようにしていました。
でも、飲めるような味ではありません。
飲み物も食べ物も、よく吐くようになっている頃でした。
歯医者さんは、私の目の前に顔を寄せて、
「悪い事言わないから、一度、心療内科へ行きなさい」と言われました。
「それと、おしりの何処が痛いの?」と聞かれました。
固い椅子に座るのがとても痛いのです。歯科の診療台は固くてとても痛かったのです。
おしりの座面にあたる部分が、何かに負けて酷くただれています。
恥ずかしくて、誰にも相談できずに痛みをこらえていました。
心療内科へ行く前に、女医さんの皮膚科へ受診しました。
診るなり、「褥瘡」(じょくそう)≪床ずれ≫と言われ、軟膏をもらいましたが、現在に至っても完治せず、低反発の円座が手離せません。主人の遺骨の前でずっとフローリングの上に座り続けていたのと食事が摂れず、栄養状態の悪化から褥瘡にまでなったようです。
どうして、心療内科に行かなくてはいけないのか?
そもそも、心療内科って何を診てもらうのか?
それぐらい、縁の遠いものでした。
まず、以前とは別人のように痩せてしまっている事。
主人を介護するには、主人よりも重くならなければなりませんでした。
力が必要だったのです。女一人では、到底、成人の男性を動かす事など不可能です。まして、主人は右半身がマヒしていて大変な重さでした。
5月から、4か月で20キロも体重が減っていました。
見た目は、激ヤセ状態、頬はコケて肩の筋肉も無くなっていました。
次に、味覚と食欲のない事。
味が全くわからなくなっていました。何を食べても、ゴムか粘土を食べているような気持ちの悪い食感でした。水もお茶も何を飲んでも鉄サビのような変な味がして、常時、吐き気がし、胃がムカムカして気持ちが悪かったです。
元気なオバさんを自称するほど、よく食べよく寝る病気知らずな私でした。
おやすみ1秒、それぐらい寝つきのいい方でした。
それが、全く眠れません。布団に入って目を閉じても、延々と寝付けず朝になる事が度々続き、眠たいはずなのに、眠れないのです。
一日中、頭がボゥーとして、自分で何を考えているかつかめず、ミスが多くなりました。
ただただ、悲しい。自然に涙がこぼれて、大声を上げて泣いてしまいます。
泣いて泣いて泣いて、泣くだけ泣いて、気が滅入り、ふさぎ込み誰とも会話がなくなりました。
歯医者さんも女医さん、女は女同士、心療内科の先生も女医さんが、市内で見つかり、何とか、元の生活に戻れるよう、初めて心療内科の門を叩きました。
しかし、この最初の思いもしない、つまづきが、私の心の大きな傷になろうとは、誰が予想したでしょう。
蒸し暑い日でした。待合室は、窓が締切、エアコンも動いていませんでした。
暑がりの私には、入った時から、苦痛でした。
予約制で、初診の私は、2時間半以上待たされ、汗だくで、吐き気がして、冷汗まで出てきました。
予約の患者さんたちは、全て診察が終わり、やっと自分の名前が呼ばれ、診察室に入りました。
年配の女医さん、しかし、内科の医師でした。
「心療内科は、木曜日の予約制、一応、話だけは、聞くから」と言われました。
私は、体調不良で、体がだるく、吐き気がする。と伝えました。
「今日は、薬は担当医じゃないから出せません。改めて木曜日に来て下さい。」
そう言われて、その日は、そのまま帰宅しました。
それから、ますます吐き気が酷くなり、ほとんど食事らしい食事も摂れず、フラフラでした。
眠れず、涙が止まらず、次の木曜日には、動く事すらできませんでした。
二週間後、予約の電話をしようとかけたら、一ヶ月後なら空いてると言われました。
予約を取り消すなら、前もって電話するようにと、きつく対応に出た人に言われ、しんどくて、電話ができなかったと言うか言わないかで電話をガチャンと切られてしまいました。
そして、予約した木曜日、心療内科医という年配の女医の診察を受ける事になりました。
問診書と前回の内科女医のメモを見ながら、第一声
「どうされましたか?」 マニュアルなのか?私は、それしか言えないのかと思いました。
私は、「亡くなった主人の通院していた歯医者さんで、突然、主人の事を思い出して号泣したら、歯医者さんが、様子がおかしいので、一度、心療内科で診てもらった方がいいと勧めてくださったので来ました。」と言うと
女医さんは、「おかしな答えをするねぇ、私は、どうされましたかと聞いてるのよ」
しばらく沈黙が続きました。
すると、机に音を立てて、ノートらしきものを置いて
「何しに来たの?答えてもらわないと何も進まないでしょ」と大きな声で言われました。
私は、どう答えてよいのか、考えがまとまらず、おどおどしていました。
「吐き気が酷くて、ごはんも食べたくなくて、食べてもゴムを食べているような感じで、体が物凄くだるくて、夜も眠れず、朝方までぼぅっとして、主人の事を思い出しては泣いて・・・」
とここまで言うと、また私は、泣き出してしまいました。
女医さんは、私の方へ椅子を向けて
「ちょっと待って、あのねぇ、ここは、悩みの相談室じゃないのよ。泣かれても困るのよ。ご主人が亡くなったり、家族が亡くなったら誰でも悲しい。でも、それは、ただの感情移入。病気でもなんでもない。吐き気がする。眠れない。それに対しては、私は、薬を出してあげられる。ここは、何度も言うけど、悩みの相談室じゃない。泣くなら家に帰ってからにしてくれない?
それに、食べなきゃ誰でも体重は減る、当たり前の事、すぐに病気に結び付けようとするのは、素人の考え、今日は、薬を出してあげるけど、大したことないわ、心配しなくても、私は、医者だから、見ただけでわかる。眠れないのも、お昼とかに自然に寝てるからじゃない?それをいちいち、夜に眠れないと言うのもわざとらしいし、多少、食べなくても
あなたには、まだまだ脂肪も筋肉もついてるから大丈夫よ。
あなたより、もっと深刻な人たちが大勢、私の診察を待ってるの、市内には他に心療内科があるから、そっちへ行って、せいぜい好きな事言って泣くといいわ。それにね、あなた、心療内科を勘違いしてるわ。内科や外科と同じ、熱がある。すると医者は、調べて病名を突き止めて薬を出す。ケガをした。手当をし、薬を出す。
心療内科に来る前に、内科の先生に診てもらったでしょ?
熱もなく、悪いものも食べたわけでもなく、病名はつかなかった。ただ、吐き気がする。眠れない。
私は、それに対して薬を出す。あなたの悩みを聞くのが、心療内科じゃないわよ。
歯科医師に何か言われたの?先入観を持って、心療内科へ来たんでしょ?
自分は、病気じゃないかってしっかりしてるじゃない。
本当に、病気の人は、自分からはここへは来ないわよ。
あなたは、悲しいのを誰かに認めてもらいたいだけなの。忘れかけたら、思い出し、泣く。
自分で感情をコントロールできてるじゃない。本当に病気の人は、そんな事すらできない。
余計な事だけど、いきさつをいちいち付け足すのは、やめといた方がいいわ。
簡潔に、吐き気がする。眠れない。だけでいいの。
あなたの話は、本題に入るまで長いのよ、何処で誰にどうされたとか、私に説明しても無意味でしょ?
診察時間が、長くなるだけ他の待ってる患者さんが、迷惑するから」
私は、この女医さんとのやり取りを何度夢に見たか。
「甘えてるんじゃないの?ただ、あなたは、悲しいという事で、怠けているだけ、わかっているでしょ?
自分でも意識がちゃんとあるでしょ、病気でも何でもないのに、あなたは、病気になったつもりで現実逃避したいだけなの」
「頑張りなさい。ご主人だって、そんな今のあなたを見たら、後ろ髪をひかれて成仏できないわよ」
と捨て台詞を言われました
その帰り道、私は、自動車事故を起こした。
自分で、どうにもできない苦しみを何とか助けてもらおうと受診した心療内科
こんな今の私だと、あんなに苦しんで苦しんで亡くなった主人に更に追い打ちをかけるのなら、消えてしまおうと思った。
涙で、目の前が見えなくなり、その瞬間、
「もう、いいや・・・」とアクセルを踏んでいました。
でも、私は、生きていた。死ねなかった。車は、前部が大破したのに、生きていた。
人間、そんなに簡単には死なない。じゃあ、何で主人は亡くなったのか?
一字一句、鮮明に覚えている。
二度と、心療内科なんか行くものか。
薬は、処方箋をもらったが、薬局へ行かず、何も飲まずに、必死に耐えた。
私は、何をしにあの医院へ行ったんだろう。ますます、吐き気が酷くなり、食事も摂れず、
起き上る事すらできなくなってしまいました。
10月26日、『開院のお知らせ』というチラシを手に取った。
ピンク色のかわいいチラシだった。
「心療内科」という文字が目に飛び込んできた。
あれからずっと市販の胃薬を飲み続けていたが、一向にムカムカ感が取れない。
とにかく、一日中、気持ちが悪い。耳鳴り、吐き気、体がだるくてどうしようもない。
余計な事を言わずに、薬だけもらいに行こうか?
あまりにもしんどくて、そう思い始めていました。
どんな雰囲気なのか電話をしてみました。
市内のあの女医さんを含めて他の4軒の心療内科とは、全然違う応対だったのです。
患者さんは、たくさん来ていました。みんなテレビを観たり雑誌を読んだり、お喋りをしたり、スマホをいじったりと一見、普通の感じでした。
きれいにメークもして、身なりも髪の毛もきちんとしている人ばかりでした。
私はといえば、すっぴんに髪はバサバサ、流行遅れのジャンパーにズボン、寝てない、食べてないでヨレヨレ状態でした。この違いは、何だろうと目を疑いました。
かなりの待ち時間で、隣に座っている人の嫌い系の香水のせいで、吐き気で冷や汗が出て来ました。
もう、帰りたい。そう思った時に、スタッフの女性が、私の目の前に来て、名前を呼び診察室まで付き添って誘導してくださいました。ドアまで開けて、そして、こじんまりとした診察室に、背の高い若い男性医師が、「こんにちはー、お待たせしました」と明るく出迎えてくださいました。
泣かない、余計な前置きは言わない、質問された事に簡潔に答える。
そう、言い聞かせて椅子に座りました。
問診書を基本に、聞き取りが始まりました。
15分ぐらいの診察時間だったろうか・・・
とても穏やかに、話をされる先生です。
時折、涙が溢れそうになり、精一杯、余計な事を言わないよう気をつけて話をしました。
思った事が、口から出てこない。考えがまとまらない。支離滅裂な事を言ってる気がしました。
でも、先生は、ジッと耳を傾けてくださいました。
今の苦痛を何とか伝えようと、できるだけ、悩みの相談のように話を傾けず、苦痛だけを伝えようと努力しました。
【身体表現性障害】最初の私の病名
処方してもらった薬は、以前の女医さんの時と全く同じでした。
「スルピリド」前の時は、処方箋は出してもらったが、薬局には行かなかった。初めて飲む薬
「ファモチジン」胃薬
「レンドルミン」睡眠薬
一ヶ月後、「スルピリド」から、「ルボックス」へ変わる。
月に二度の診察、少しずつ、先生は、どうしてこんな状態になったかを聞き出そうとされます。でも、同じ過ちを繰り返したくない。
心療内科は、悩みの相談室ではないと女医さんは、はっきりと言い切った。
私は、薬だけが欲しかった。余計な事は言ってはいけない。と話をするのに気をつけていました。
先生は、そんな距離を簡単に埋めるが如く、独特の話し方で、私の心の壁を突き崩してしまわれました。
「何でも話してよ」と言われました。
気取らず、優しい話し方をされる先生です。
副作用の辛さや、どんな症状で苦しんでいるかなど、細かく説明を求められます。
患者が、一番して欲しい事、それを聞き出そうとされる先生です。
二ヶ月後、「ルボックス」から、「トリプタノール」へ変わる。
この頃から、寝つきはいいけど、午前3時になると目が覚めてしまうようになっていました。
頓服として、「マイスリー」を飲んで二度寝するように勧められました。
思ったように、食事が摂れず、極度の栄養失調状態で、フラフラでした。
先生から、本気で入院を勧められましたが、拒否しました。
理由は、病室へ入れられたら、間違いなく私は、発狂するでしょう。
主人の最期の場所、家にいても、月末が近くなってくると、家なのか病室なのか区別がつかなくなるほど酷いフラッシュバックが起こります。
泣き叫び、平常心ではいられなくなります。
私は、言う事をきかない悪い患者です。
12月の診察で、先生から、
【死別反応性うつ病】と病名を改められた。
主人が入院した14日から、亡くなった31日がくるたびに、気持ちが一気に下降へと向かう。食事ができなくなり、少しずつ家事ができるようになりかけていても、体が重たくなって、動けなくなる。主人の遺骨の前に座る時間が長くなり、褥瘡が更に酷くなる。
とにかく、辛い。
何が辛いのかさえわからない。
しんどくてたまらない。悲しくて泣き通し。でも、一ランク上に上がっているのが自分でもわかる。泣き止む事ができるようになりました。
4月から、「トリプタノール」を増量し、50mgの服用になりました。
副作用は、倍になるけど、今まで、夕食を食べるのがやっとだったのにお昼も少しずつ食べられるようになりました。私には、かなりの効果があるようです。
副作用は、想像以上に凄いです。
まずは、薬の味
飲むときに、水で即座に流し込まないと口の中の舌や内頬に薬がついたら、大変な味がします。石油を飲んでいるような味です。
そして、便秘と口の渇き、便秘薬を出してもらっていますが、私は、ドラッグストアで、ダイエタリーファイバーのお徳用粉末を購入し、大量の水分とともに、飲むようにしています。口の渇きは、しょっちゅう、お茶や水を口にふくんで対応するしかありません。
最後は、眠気、私は強い睡眠障害のため、この眠気は、心地のいい気分です。
一日中、フワフワとした眠気があります。普通程度の人なら、飲んで少ししたら、睡魔が久しぶりの夢の世界へ誘ってくれる事でしょう。
どちらにしても、やっと、相性のいい薬に出会えたというところです。
そして、何よりも信頼のおける素晴らしい専門医に巡り合ったという幸運でしょうか。
心から感謝し、自分のペースで治療に励んでいます。